東アジア近代初期国際法テキスト対訳データベースについて

       東京大学大学院法学政治学研究科助手 西 英昭

1:意義・目的
 本データベースは、東アジアにおける早期の国際法文献の中国語訳とされる魏源『海国図志』所収の「滑逹爾各國律例」部分、及び丁韙良(W. A. P. Martin)訳『萬國公法』の註釈本の一つである曹廷杰『萬國公法釋義』を取上げ、それぞれの翻訳部分の原典である英文テキストないし仏文テキストとの対比を行うものである。
 『海国図志』及び『萬國公法』は東アジア世界のヨーロッパ国際法への接触の端緒として以前から多くの研究が積み重ねられてきており、この翻訳の持つ歴史的意義に付いても広く認識されていると言ってよいものと思われる。本プロジェクトではこうした先行研究が積み上げてきた情報を整理し、扱う文献それ自体について現在の時点でどこまでが明らかになっているのかを改めて整理し、今後の研究の基礎とする。
 また翻訳が行われたこと自体は非常に著名な出来事として知られているものの、実際に翻訳されたテキスト及びその原典を自身の目で見て比較検討する機会は(一部研究者を除けば)少ないものと思われる。そうした事情を踏まえ、この翻訳事業をテキストに降りて確認することを容易にするための画像の提供を目途とする。インターネットでの公開を通じ、翻訳された版本の画像を直接自身の目で検証することが可能となり、研究・教育の場での活用も期待できるものと思われる。
 また東京大学東洋文化研究所図書館大木文庫は中国法制史に関係する世界的なコレクションとして夙に有名であるが、今回はその貴重な書籍群の一つ、曹廷杰『萬國公法釋義』を画像として公開し、同研究所が所蔵する貴重な知的遺産を、より閲覧が容易なデータベースという形で広く一般に共有することも目途とした。

2:作業概要
 まずは当該テキストの撮影を行った。使用した版本は
  魏源『海國圖志』(清道光27年、増補六十巻本)
  Emmerlich de Vattel, Le Droit des Gens, ou Principes de la Loi Naturelle,
appliques a la Conduite et aux Affaires des Nations et des Souverains. 1758
(Carnegie Institution of Washington, 1916)
  Emmerlich de Vattel, The Law of Nations; or, Principles of the law of nature,
applied to the conduct and affairs of nations and sovereigns.
A New Edition by Joseph Chitty, London, 1834
  曹廷杰『萬國公法釋義』(東京大学東洋文化研究所大木文庫所蔵本)
  Henry Wheaton, Elements of International Law, 2nd annotated Edition, 1863
である。については1855年第六版を使用するのが望ましいが、第六版を東京大学に於いて所蔵していないことから、さしあたり1863年第七版を使用する。
 撮影の後これらの画像をコンピューターへ取り込み、中国語テキストとそれに該当する英語・フランス語テキスト部分の対応関係を先行研究から同定し、中国語テキストを基準として対応する箇所のアイコンをクリックすると該当する英語またはフランス語のテキスト部分にジャンプできるようにリンクを張っておく。また翻訳された原典の作者、原典そのものについての情報、翻訳の経緯などに関する簡単な文献解題(本稿末尾参照)を附し、また興味のある閲覧者のために、『萬國公法』の導入の問題に関する日本、中国、韓国の研究論文に関する文献リスト(本稿末尾参照)を付した。

3:今後の課題
 今回は『萬國公法釋義』の内、先行研究によってその原典との対応関係が確定された箇所についてまずデータベースを作成することにした。今後は『萬國公法釋義』全体に渉って翻訳箇所を同定し、全テキストについてデータベース化することが望まれる。
 また翻訳というテーマを巡っては西洋語から中国語への翻訳過程を、翻訳語に関する大量のデータをもとに分析する研究が行われている(1)。本データベースにさらに新たなテキストを追加することで、分析対象となるテキストを増やし、(一方でこの研究は数さえこなせば良いという性質のものでは無いことにも留意しつつ)こうした翻訳語の研究にさらなる貢献をもたらすことも望まれよう。
 近代中国に於ける国際法という研究テーマからは、当時の中国をめぐる国際法、特に中国が諸外国と結んだ条約に関するデータベースの構築が急務である(2)。不平等条約体制として多くの研究に言及されながら、条約の正文は何語で書かれていたか、正文が複数の言語に渉るとすればそれはどのテキストにあたればいいのか、その条約は何年何月何日から発効したのか、などの基礎的な情報はまとまって整理されていないのが現状である。こうした諸条約の正本を整理し、そのテキストへのアクセスを容易にしておくことは、近代中国研究にとって非常に有用な資本を提供することになり、また今回のデータベースが提供した国際法の知識が具体的に応用されたのか否か、その現場を見せるものとなるであろう。
 また『萬國公法』は中国のみならず韓国、日本においてもその影響は甚大であった。こうした各国の「『萬國公法』体験」の比較によって、我々が新たな問題をそこに見出す可能性は非常に高い。特に、韓国における近代法の問題は、旧来日本や中国におけるそれと比べれば十全に紹介されてきたとはいい難い。今後は韓国、ベトナムなどにおける経験も広く議論の対象に加えられていくべきであろう。



(1) 例えば李根寛「동아시아에서의 유럽 국제법의 수용에 관한 고찰 −『만국공법』의 번역을 중심으로−」(東アジアに於けるヨーロッパ国際法の受容に関する考察―『萬國公法』の翻訳を中心として―)(서울국제법연구(ソウル国際法研究)9-2・2002)は『萬國公法』に登場する法律用語の対照を行っており、李貴連『二十世紀的中国法学』(北京大学出版社・1998)は清末中国における日本からの法律用語の流入について、またLydia H. Liu, Translingual practice: literature, national culture, and translated modernity -China, 1900-1937は法学のみならず広範囲に近代中国における翻訳語の問題を考察する。
(2) 現在田涛主編『清朝条約全集』(黒龍江出版社・1999)などの刊行物によって徐々に条約テキストの整理が行われつつある。こうした成果との連絡も求められることとなろう。