『海國圖志』「滑逹爾各國律例」・『萬國公法釋義』解題
以下の解題では、本データベースで扱った『海國圖志』「滑逹爾各國律例」・『萬國公法釋義』について、それぞれの翻訳の原著者及び原著についての情報を整理し、それが中国語に訳されるに至った状況を簡単に解説しておく。データベース閲覧の際の参考にしていただければ幸いである。なお『萬國公法釋義』は原典の中国語訳にさらに註釈を付したものであり、翻訳自体は『萬國公法釋義』の作者の手によるものではない。「翻訳」への「註釈」という二つの作業段階を経たものであり、それぞれについてその背景を解説しておいたので参照されたい。
:『海國圖志』「滑逹爾各國律例」について(1)
:Emmerich de Vattel, Le droit des Gensについて
原作の著者であるエムリッシュ・ヴァッテル(Emmerlich de Vattel, 1714-1767、名前はEmer(エミール)とも表記する。)は現在のスイス西部にあるヌーシャテル州クーヴェに牧師の子として生れた。バーゼル大学、ジュネーブ大学に学び、その間ライプニッツに傾倒して1741年には「ライプニッツ体系の擁護」なる研究論文を草し、翌年これを持って当時のヌーシャテルが名目上の領主として戴いていたプロイセン国王フリードリヒ2世の居たベルリンに赴き官職を得るべく活動した。このベルリン滞在中にクリスチャン・ヴォルフ(Christian Wolff)の著作に強い影響を受け、研究を開始し、1743年にザクセン侯の招聘に応じてドレスデンに渡り、1749年スイス駐在ザクセン特命全権大使としてベルンに派遣された。このベルンでの外交官生活の中で著作『国際法』(Le droit des Gens)を執筆し、1758年に出版している。そのころ勃発した七年戦争(1756-63年)においてザクセンはオーストリアのマリア・テレジアと結んでフリードリヒ2世に対抗したため、ヴァッテルはベルンからドレスデンに召還され、宮廷顧問官として外交問題の処理に当った。その後激務による疲労で倒れ、1767年に逝去した。
:Le droit des Gensのその後
ヴァッテルの『国際法』は最初1758年、ロンドン(一説にライデン)に於いてフランス語で出版された。その作品は一部特権階級のみが理解できるラテン語と訣別し、学問研究の領域から政治の場に頒布導入し、絶対主義の国際法から政治的自由を強調した民主主義の国際法を論じたものと評されている。早くも1760年には英訳初版が刊行され、1793年に再版、1797年にはアメリカのウィリアム・コーベット(William Cobbet)の手によって校訂第三版が出されている。この本はスイス人デュマスの手によりアメリカ独立戦争最中のベンジャミン・フランクリンの手に送られ、第一、二回大陸会議への参加者、アメリカ連邦憲法の制定者に広く利用されたと伝えられる。ヴァッテルがイギリス憲法を賞賛し、ジョン・ロックの思想などに影響を受けていたことなどから、彼の『国際法』はアメリカでその後広く用いられた。今日最も著名な1833年第八版、1834年第九版の校訂を手がけたジョセフ・チティーはナポレオン戦争、米英戦争から発生した諸問題の決定に関してヴァッテルの著書の適用と思想的影響を期待したものとされている。この後も19世紀を通じて版が重ねられ、判例などにも盛んに引用された。
:『海國圖志』へ
『海國圖志』所収の「滑逹爾各國律例」は、ヴァッテル『国際法』のごく一部が中国語訳されたものであり、巻五十二夷情備采下の部分に収録されている。訳者の一人Peter Parker(中国名は伯駕)はアメリカの宣教師であり、医師でもあった。1834年に伝教のため中国へ渡り、中国語習得の後翌年には広州に博濟医院(眼科)を開設、医療を通して布教にも当たり、また広州の官僚とも交流を有した。1844年には望夏条約の締結にも関与し、1855年から57年にはアメリカ駐清公使にも任じた。彼はアヘン戦争前夜の1839年7月頃、林則徐の依頼でこの翻訳を行ったもので、同年9月頃には完成したようである。もう一人の訳者袁徳輝についてはその情報が少ないが、1800年ごろ四川に生まれ、1820年ごろ広州においてラテン語・英語を学習した後理藩院通事に任じ、1830年代には数回広州にて外国語文献の収集に当っていたようで、林則徐のもとでの通訳人員として活躍していた人物のようである。翻訳にはチティーの註釈部分が含まれていることから、用いられた版本は1833年か1835年の英国版、1835年か1839年の米国版である可能性が高いといわれている。何ゆえ数ある教科書のうちヴァッテルのものが選ばれたか、誰が最終的にその選択を行ったかは明らかではない。
『萬國公法』と『萬國公法釋義』について(2)
:Henry Wheaton, Elements of International Lawについて
原作の著者であるヘンリー・ウィートン(Henry Wheaton, 1785-1848、なおカタカナではホイートンとも表記される。)はアメリカ・ロードアイランド州プロヴィデンスに裕福な一商家の息子として生れた。ロードアイランド・カレッジ(現在のブラウン大学の前身)に学び、1802年に卒業したのち法律事務所にて司法実務経験を積み、弁護士会に加入した。1805年にはヨーロッパに留学し、翌年帰国後は法律事務所を開設、ナポレオンによる大陸封鎖令とそのアメリカ海洋貿易への影響について多数の評論を発表していた。のちニューヨークに移り新聞記者として米英戦争問題を論じ、同戦争後ニューヨーク海事裁判所判事に任じ、またこの間多くの著作を発表していた。連邦最高裁判所の判例集編纂レポーターにも任じたが、後任のレポーターとの間に著作権問題を生じ、訴訟に敗訴。1827年にはコペンハーゲン駐在アメリカ代理公使に任じ、ナポレオン戦争時にデンマークにより捕獲・訴追されたアメリカ商船への賠償問題の処理に当った。後にプロシア代理公使に転じ、ドイツ関税同盟との通商条約締結交渉、他のドイツ諸国との交渉にも当った。この間1836年にElements of International Lawを発表している。しかしドイツ関税同盟との煙草関税引下を巡る条約が本国で批准拒否され、1847年に帰国。ハーバード大学は彼を教授として迎える準備を進めていたが1848年逝去した。
:Elements of International Lawのその後
初版は1836年にロンドン及びフィラデルフィアにて刊行された。英語で書かれた国際法に関する体系的な書物の最初のものであり、外交官や公職にある人間が用いやすいように国際法の基本原理を明瞭・正確に記述したものと評されている。第三版はウィートン自身による大幅な改訂のもと1846年に公刊されている。本人は第四版の刊行も予定し序文も用意しており、それは彼の逝去した1848年フランス語でライプチヒ及びパリで第四版として刊行された。なお第五版も1853年、同様にフランス語で刊行されている。
第六版はウィートン家遺族の財政的窮状により、ウィートンの友人ウィリアム・ビーチ・ローレンス(William Beach Lawrence)の編集により1855年に刊行された。のち1861年の南北戦争勃発によって国際法への関心が高まったことから再度の刊行が予定され、同じくローレンスの手により1863年に第七版として刊行された。しかしその後ローレンスは同書の著作権獲得をめぐって出版社・遺族と対立、遺族は新たにリチャード・ヘンリー・ダナ(Richard Henry Dana)に編集を依頼し、1866年第八版として刊行、ハーバード大学はダナのこの功績に対し法学博士号と国際法教授の地位を授与した。しかしその後ローレンスとダナの間に著作権訴訟が起り、両者の逝去後まで継続した。
:『萬國公法』へ
ウィートンのElements of International Lawの中国語への翻訳は、アメリカの宣教師であったウィリアム・マーティン(W. A. P. Martin, 1827-1916、中国名は丁韙良)が1862年ごろから進めていたものである。当時の中国は第二次鴉片戦争の敗北後、外交事務を管轄する総理衙門が設置されていた。このような状況下でマーティンは四人の中国人の協力を得ながら翻訳をすすめ、さらに総理衙門の秘書四人が半年がかりで校訂した上で1864年に完成したのが『萬國公法』である。翻訳時期から見て参照された版本は第六版である可能性が最も高いと思われる。『萬國公法』は日本へも伝来し、開成所によって翻刻され、幕末日本に多大な影響を与えたことは周知の通りである。
:『萬國公法釋義』―曹廷杰(1850−1926)について(3)
作者の曹廷杰は湖北枝江の人、又の名を楚訓、彝卿と号した。1850年に生まれ、1871年に秀才となり、1874年に廩貢生から漢文謄録に採用され国史館に奉職、1883年に侯選州判として現在の依蘭に派遣され辺境問題に関わる。この時期よりすでに東北地方の地理・歴史に関心をもち、1885年には『東北邊防輯要』を完成、また東シベリア調査に派遣され、その結果を『西伯利東偏紀要』としてまとめ、一部を軍機處に送付している。この後も業務のかたわら東北地方の歴史・地理関係の資料収集を続けており、著名な永寧寺碑(4)の拓本もこのころ採られている。1887年には『東三省輿地圖説』をまとめ、1889年には山西省和順県知県として赴任したが、この後も『冷山考』『黒水部考』『伯利考』などをまとめている。その後も一貫して東北地方に関与し、1895年には東清鉄道附設計画策定のために活動していたロシア調査隊を追跡調査している。その後1897年からは呼蘭都魯河に於いて金山開発に携わり苦心を重ねていたが、1900年ロシア軍の東北地方侵攻によって彼の関与した金山は略奪され、自身も命からがら引き揚げるという事件が起きた。この翌年1901年より彼は『萬國公法』の註釈をはじめ、これを『萬國公法釋義』としてとりまとめ、これをもとに東三省に駐留するロシア軍の問題を解決することを求める意見書をまとめたのである。その後も日露戦争の混乱をへて清朝倒壊まで東北地方にとどまり、鉱務を始めとする実業政策にも深く関与した。民国成立後も東北地方に居た様で、1920年にようやく湖北の故郷に帰っている。1925年再び東北地方へ向かう途中、上海にて病死、享年77歳であった。
注
(1) 以下の解説は主に次の参考文献に依る。Authur Nussbaum, A concise history of the Law of Nations, the MacMillan Company, 1954 (Revised Ed.) pp156-164(邦訳:広井大三訳『国際法の歴史』(こぶし社・1997)218-229頁)、松隈清「啓蒙期の国際法学―エミール・ヴァッテルを訪ねて―」(八幡大学社会文化研究所紀要18・1986)、寺田四郎『國際法學界の七巨星』(立命館出版部・1936)、王維倹「林則徐翻訳西方国際法著作考略」(中山大学学報哲学社会科学版・1985年第1期)
(2) 以下の紹介は主に松隈清「ヘンリー・ホイートンの研究―法律家としてのヘンリー・ホイートンを中心として―」(八幡大学論集25-1,2・1974)、同「ホイートンの「国際法原理」探訪」(八幡大学社会科学研究所紀要4・1978)、張嘉寧「『万国公法』成立事情と翻訳問題―その中国語訳と和訳をめぐって―」(加藤周一・丸山真男編『日本近代思想体系15 翻訳の思想』(岩波書店・1991))に依る。なお張論文は先のヴァッテルの翻訳について「一七五八年、即ち八〇年も前に書かれたヴァッテルの著作が国際法の代表的な参考文献として選ばれたのは、その分野に対する当時の清国の知識人や政府官僚の知識の貧弱さを物語っているに違いない」(384頁)とするが、その判断は先に見たとおり留保が必要である。
(3) 以下の紹介は主に叢佩遠・趙鳴岐「曹廷杰生平活動年表」(歴史档案1985年第4期)に依る。現在彼の文集として『曹廷杰集』(中華書局・1985)、年譜として傅■云・楊暘「曹廷杰年譜簡編」(北方論叢1990年第6期(総104期))、また彼に関する研究に方衍「曹廷杰与金上京」(求是学刊1994年第4期)、石岩・盖立新「論曹廷杰的実業救国思想」(黒龍江史志1994年第1期)、興夫・徳標「愛国学者曹廷杰」(黒竜江史志2001年第2期)、董丹「曹廷杰及其《西伯利東偏紀要》」(西伯利亜研究2000年第5期)がある。
(4)内藤湖南が早期から注目していた碑文であり、明代のアムール川(黒龍江)流域の歴史を考察する際の貴重な史料の一つとして知られる。内藤旧蔵の拓本が京都大学人文科学研究所に所蔵されるが、さらに近年市立函館博物館でも発見されたとのことである(中村和之「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」(函館日ロ交流史研究会会報23・2003)参照)。また内藤は「阿什哈逹磨崖字」の所在について曹廷杰に問い合わせたことが同「近獲の二三史料」(『讀史叢録』(弘文堂書房・1929))に見られる。