関連:新城新藏と『春秋』の暦

上野賢知が新城新藏の研究に對して「蒙を開かれた」と述べている点について、説明を補足しておきましょう。
上野は、具体的には、次のように述べています。

「若し新城博士の説が正確なりとすれば、次の二つのことが証明されよう。(1)周以前はみな夏に従ひ、商夏(殷と夏)の両民族について異同なきこと、(2)周以前の夏も五月を辰月と云ひ、十一月を戌月と云ふは周と同じきこと。かくして建寅・建丑の説が決して三代の史実でないことは、彰々として明かになる訳である。」

ここには新城説に関する誤解があります。新城は、古い時代には、季節をもとに正月を決める原始的ながあり、それは冬至をひとつの目安としていたものの、冬至を正確に観測してそれを含む月を決めたのでもなんでもなかったことを証明しました。そして、冬至を観測して冬至が含まれる月を定めた、つまりその冬至月を正月とする周正(建子)、周正正月の翌月を正月とする殷正(建丑)、さらにその翌月を正月とする夏正(建寅)、いずれもなかったことを論じています。原始的なを観象授時のとよび、戦国中期に新しいが誕生することを述べました。歴代論じられてきた周正・殷正・夏正は、この新しいの一種だったのです。
ですから、新城の研究によって、殷のと周のでは正月が一ヶ月ずれてはじまるという歴代の説が誤りであることがわかったことは事実です。上野賢知は、この点を正確に読み取ったのですが、「周以前の夏も五月を辰月と云ひ、十一月を戌月と云ふは周と同じきこと」という説明は新城説ではありません。
こうなったのは、新城が観象授時のを説明するのに、戦国時代の夏正やそれを発展させた秦のの用語を使ったためです。そもそもいつから正月が始まるか、から議論されますから、こういう説明をしないと、基準が定まらなくなるわけで、新城はそれをこころえていたわけです。
上野だけの問題ではありませんが、歴代の議論が頭から抜けないまま、「原始的な」という発想をもたず、観象授時のについての説明を読んで、「むかしは夏正(夏)をもちいていたんだな」と考えてしまう傾向があります。熱心に古典を勉強した人ほど、そうなりがちです。
上野の判断で注目されるのは、夏正・殷正・周正の交替という、革命理論の根幹に触れる説明が誤りだということを、正確に読み取った点にあります。

拙著『春秋』と『左傳』(中央公論新社、2003年、次のページに説明があります。郎のホームページ)から、關連する部分を拔きだし、示しておきます。ご參照ください。(拙著7頁

新しい(帝王の)制度は、前四世紀の後半になってやっとできあがった。この事実がもたらす衝撃ははかりしれない。なぜなら、これまでの議論は、帝王の制度が太古の昔から存在するとの前提で組み上げられてきたからである。
実は、この衝撃に関わる話題は、いまから七〇年以上も前に議論されていた。それは帝王の制度と密接な関わりがあるの成立についてであり、新城新蔵(一八七三〜一九三八年)など天文学を専門とする学者によって提示されたものである。代々の中国では、計算によって作り上げられる暦が太古の昔から存在していたと思われてきた。しかしこの種類の暦が、実は前四世紀半ばに出現したものだという驚くべき見解であった(『東洋天文学史研究』弘文堂、一九二八年)。この見解は、天文分野では常識に属する話になった。
常識になったとはいえ、その常識の中から相対立する見解が生じなかったわけではない。しかし、対立点は、帝王の制度としてのがいつ始まったかではなく
、前四世紀に初めて出現した帝王の制度としてのは、具体的にどんなものかであった。かくいう私も、新城らとは異なる見解をもっている。しかし、前四世紀に帝王の制度としてのが始まったという常識は、継承しているのである。
説明のための画像はこちら春秋正月朔
新しい暦については、西方からの影響を論じる説もある。しかし、ここでも、帝王の制度全体がそっくり伝わったと議論されているのではない。西方のと新しいを比較して、どんな影響を受けていたかが具体的に論じられる。前四世紀に帝王の制度としてのが始まったという常識はゆるがない。
ところが、不思議なことに、この暦についての常識は、歴史学や思想史を研究する上で、必ずしも常識にはならなかった。そのため、帝王の制度が戦国時代に始まったという意識も希薄だった。暦の劇的な変化を、歴史学や思想史の上で、適切に位置づけることのないまま、多くの時が流れた。殷代や周代を語る書物の中に、帝王の制度があちこち書かれている場合、それを殷代や周代の「事実」だと考えてしまう傾向も改まらなかった。