補足説明
以上、説明がわかりにくいと思いますので補足します。戦国時代中期の前4世紀半ばにうまれた方法では、冬至を含む月を計算によって定め、これを周の1月だと規定しました。『春秋』に示されたはこれとは違うわけですが、強引に周正だと説明してしまいました。以後、歴代の議論の中で、このこと自体が疑われたことは基本的になく、新城新藏にいたって、誤が正されたわけです。
冬至月 翌月 翌々月
周正1月 2月 3月 ----
夏正11月 12月 1月 ----
春の始まり
『春秋』は冬至月を1月としていると皆が信じた。そうすると、『春秋』が1月は春だと説明するのは、通常論じられる季節とずれている。
ところが、にうとい人々でも、『春秋』に示された季節、つまり春夏秋冬がずれていることはわかるわけです。春夏秋冬と月の関係は、現在の旧暦を思い浮かべていただけばわかります(旧暦が付記されているカレンダーでも可)。現在の旧暦は戦国時代に生まれた夏正の子孫ですから、季節との関係に限っていえば、いまの旧暦で考えていただいてさしつかえありません。月の満ち欠けと太陽が決める1年との関係は毎年同じではありませんが、旧暦1月が春の始まりである立春の前後ではじまることがおわかりになると思います。
ですから、正月(1月)が春だという言い方は、夏正の説明だということになります。『春秋』のは周正だと見なされていることを述べましたが、『春秋』の記事は、「春王正月」などといった月と季節の関係を記しているのです。
そこで、これは周正の月に夏正の季節の説明をつけたのだ、という説明が生まれ、いや違う、周正でいう春は、いまいう季節とはずれていて、周正1月からが春なのだ、という反論が示された、という次第です。
ところで、干支は甲子から癸亥まで60個あります。これを六十干支といいます。1カ月は約29 . 5日ですから、ある干支の日が1月にあった場合、同じ干支の日はたいてい3月にもあります。周正(冬至月を1月とする)の3月が夏正(冬至月翌々月を1月とする)の1月ですから、周正の1月にある暦の日どり(某日)はたいていの場合夏正の1月にもある、ということになります。この関係があるから、周正の月に夏正の季節を冠したという説明ができるわけです。『春秋』のは周正ではないという事実が、新城新藏によって証明されたということは、同じ材料を使って、『春秋』のは夏正でもないという事実が証明されたということでもあるのです。
歴代の周正か夏正かの議論と、新城の明らかにした事実は別次元のことです。
本来別次元のことを証明するはずの材料から、周正・夏正の議論ができあがったのは、戦国時代以来の説明が、選択された材料によるものだからです。周正・夏正の議論ができるような材料だけをとりあげて議論しています。ですから、歴代の議論は、材料をすべて使って組み上げられた新城の研究で否定されたわけです。
戦国時代に『春秋』のに説明が付されたわけですが、その際戦国時代の王のにとってこのましい事例を選んでいます。その材料から選んで正統なるにしたてあげられた周正を説明します。この周正だと認識させられた暦日に、夏正の季節をかぶせました。周の世には周正をもちいていたのだが、いまや夏正の世がおとずれるのだという予言効果をねらったものです。この予言がその通りになったということで、戦国時代の王たちが夏正を用いることになります。
戦国時代の説明に際して事実が「選」ばれた後、歴代の議論はこの選ばれた事例から離れることができませんでした。そのため、あまた存在する事例(多くの日食を含む)の向こうに、新城の結論が得られることが読めなかったわけです。戦国時代人の術中にはまってしまったといえます。以後歴代の議論では、術中にはまったまま、周正と夏正が問題にされてきたわけです。そうした議論の中では、程伊川のものが、戦国時代の資料操作にもっとも忠実だったということになります。戦国時代の資料操作に忠実であったかなかったかは別として、結果としてはまったままであった人々を、二千数百年の呪縛から解き放ったのが、新城ら天文学者の研究でした。