江戸時代の『左傳』注釋

上野賢知『左氏會溯源』が補った我が国江戸時代の学者たちの研究ですが、上野はその著『春秋左氏傳雜考』(<無窮會>東洋文化研究所、昭和34年<1959年>)の中で、その意義づけなどを進めています。
ここに、その一部を要約しつつご紹介しておきましょう。『左氏會』の著者である竹添光鴻に関するコメントもつけておきます。( )内に示したのが『春秋左氏傳雜考』中に収められた上野の論文です。

堀杏庵那波魯堂秦鼎「堀杏庵訓點の春秋左氏傳について」)江戸時代の初めに藤原惺窩が出、その門人に林羅山・堀杏庵・那波活所・松永尺五がおり、彼ら、およびその子孫によって『左傳』研究は創められたといっても過言ではない。堀杏庵らの訓読本には句読がなかったが、那波活所の玄孫那波魯堂にいたって句読点がほどこされた。そしてここにいたって訓読の語がだいぶ減り、音読の語が増えた。堀杏庵のものは国文読みに近く、那波魯堂のものはいわゆる漢文読みに近い。『左傳』の訓点は堀杏庵にその基礎がおかれ、那波魯堂において方向が定まり、 秦鼎にいたって確定したと言ってよい。

宇野明霞大田錦城「宇野明霞の左傳考と大田錦城の左傳考補について」)宇野明霞、名は鼎、字は士新。明霞は号である。没後に『左傳考』が出版された。門人片山猷が宇野明霞が書き残した付箋をまとめ、明霞の弟の士朗のしるすところも合わせ刊行したものである。明霞没(延享2)後47年(寛政4)の刊行は、那波魯堂の『左傳』訓点(宝暦5)、岡龍州の『左傳觽』(宝暦10)に遅れたとはいえ、『左傳考』は本邦人の左傳読書記に先鞭をつけたものと評価することができる。この書に引用するところは、多くは明代以前で、清代のものは極めて少ないが、顧炎武の補正も、惠棟の補注も未見らしき状況の中で、多くの問題を提起して後代の学者に暗示するところがあった。それゆえ、後代の学者は、『左傳考』を見ずにすませることができなかった。この書をとりあげた第一は大田錦城である。錦城は、『左傳考』刊行以前にこの書に増補して『左傳考補』三巻を著した。

大田錦城安井息軒「錦城の九經談と息軒の輯釋について」)大田錦城、名は元貞、字は公幹、博覧多識。『九經談』は、『孝經』・『大學』・『中庸』・『論語』・『孟子』・『尚書』・『詩』・『左傳』・『周易』について研究し得たところの独見を著した書物である。『左傳』に関するものは十条ある。この書が世に出ると、学者の耳目を驚かし、毀誉相半ばしたようである。錦城の弟子、海保漁村の年譜によれば、清人徐稼圃が多紀桂山『醫賸』、大田錦城『九經談』、村瀬栲亭『芸苑日鈔』を求めた。光緒22年に上海で出版された『經學不厭精』五巻(ドイツ人宣教師ハーベル花之安)の巻一第十二章「經學三變以見古今大概」の一説は、『九經談』の総論中の一節を引用したものである。ただ、この一節は伊藤東涯の「古今學變」の自序に清朝の考証学を加えたものである。当時、錦城の剽窃のことを譏ること喧しかったらしく、「衞宣公 ノ事ハ疑 フベシ」などは片山兼山の説を剽窃したものだと猪飼敬所は非難している。片山兼山の学統に属する藍澤南城も、『九經談』を非難している。しかし、喬木風多しのたとえで、『九經談』にはとかく非難はあったとしても、当時の学会を驚かすに足る説があった。成公十八年の傳例の用字を具体的事例を用いて訂正したこと(「歸入反正」)などはその一例で、増島蘭園の『讀左筆記』はこれを引いて賞賛している。同様の事情は安井息軒の『左傳輯釋』にも見られる。「歸入反正」のことを述べながら『九經談』に言及していない。近藤南州は『増注左傳校本』に息軒は前人の説を剽窃していると非難する。しかし、息軒が『輯釋』 の凡例に、田舎の生まれにして家もまずしかったから、先輩儒者の書物にも目を通しえていないものが多い、中井氏(中井履軒)の『彫題』を見たにすぎないが、後日見ることを得たら補入したい、これは先輩を簡にするということではない、と述べ、その説の終わりに「後生淺學、敢テ古典ヲ議ス。極メテ僭妄容ス無キヲ知ル。然レドモ心ノ否トイフ所敢テ隱サザルハ、自ラ謂フ忠ノ屬ナリト。謹ンデ見ル所ヲ書シテ以テ之ヲ後ノ君子ニ質スト云フ。 」と述べているから、息軒の心に疑いをはさむ余地はない。(上野は、こう述べた後に、桓公十六年条をめぐる大田錦城、郝京山、沈幼宰、龜井昭陽、猪飼敬所、焦循、洪邁、安井息軒の説を紹介して、それぞれの特質を検討しています。私平も『輯釋』を授業で扱ったことがありますが、その文章は、実見したものと実見しえず孫引きしたものをきっちり分けています。『會箋』が採用した安井の独見もあり、それらのことから、上野は上記の判断をくだしたものと推察できます。)

皆川淇園「皆川淇園の左傳標記について」)(上野は)琳琅閣書店にて皆川淇園の書き入れ本『左傳』を入手した。那波魯堂の訓点本の再刻(安永六年)に書き入れしたものである。もと秋田藩明徳館の蔵書である。(上野は、秋田藩明徳館蔵書となるまでの事情について考証する) 初めの四、五冊は手垢やシミでよごれ、すれているところもあり、十冊までは全紙裏打ちしてあり、十五冊とも綴り替えられ、表題も張り替えてある。この書き入れ本が明徳館の蔵書となって以後、多くの学者によって閲読されたことがわかる。この標記を筆写したのが瀬谷桐齋で、その写本も(上野は琳琅閣書店から)入手した。宇野明霞の説を受けた可能性のある部分や清の趙佑の『讀春秋存稿』を引いた可能性のある部分もある。趙佑の説を日本人が知ったのは、一般には井井翁(竹添光鴻)の『左氏會箋』が引いた後であり、それまで趙佑を引いた『左傳』学者はないから、淇園の独見の可能性もあるが、年代的には淇園が趙佑をみることができた関係にある。標記は他説を引用することはなはだ稀であるが、清の毛奇齢の『春秋毛氏傳』を引いている。毛奇齢は、当時の本邦学者に与えた刺激は大きかったようであり、その説を云々せぬ学者は少ない。

塚田虎「塚田虎の増註春秋左氏傳について」)杜預の集解に増註したもの。有るも可、無きも可の説もある。

伊藤東涯猪飼敬所安井息軒新城新藏竹添光鴻「春秋正朔論源流」)春秋夏正説は、程伊川の經説(夏の時をもって周の月に冠したのだ)に端を発し、胡安國の春秋傳(胡氏傳)にその説成り、これ以後賛否がたたかわされた。元の趙汸の『春秋左氏傳補注』の後、張以寧の『春王正月考』、呉鼎の『三正考』、崔述の『三代正朔通考』が刊行されるに及んで、春秋夏正説は完璧なまでに論難された。胡氏傳が我が国にもたらされたのは鎌倉時代であるが、これが議論されはじまったのは伊藤東涯からである。元禄年中に張以寧『春王正月考』が翻刻され、享和の初年に趙の『春秋左氏傳補注』が翻刻され(胡氏傳の夏正説を駁す)、我が国における論争の帰結を示すことになった。その中で高橋華陽だけが夏正説をとなえている(『改朔問考證』)。華陽の説は力量不足で論じるに足りない。伊藤東涯が胡氏傳の矛盾を指摘し(『胡氏傳辨疑』)、猪飼敬所が秦は月数をあらためていないことを論じ(『西河折妄』)、安井息軒が周は周正と夏正を併用していることを論じたのは、漢土の学者に比較しても遜色ない。特に新城新藏の『東洋天文學史』にいたっては、伝説的經解を排して、科学的研究の成果を教示したもので、われわれの蒙を開くこと極めて大なるものがある(補足:新城新藏と『春秋』の暦)。
竹添井井(光鴻)の『左氏會箋』は、この問題について、衆説を会して正義を成すものである。(1)顧炎武の『日知』に依って、古鼎鐘(古代青銅器)の銘には王某月と書するものが多いので、王正月に孔子の新意があるのではないことを証した。(2)息軒の『輯釋』に依って、(イ) 周室は周正と夏正を併用し、号を発し名を正すことには周正を用い、時令に施すことには夏正を用い、(ロ) 時王の重んじるところは正朔にあるので王正月と書し、夏時を用いる時令の書には時して月を書かなかったことを述べた。(3)崔術の『三代正朔通考』を引いて、(イ )冬至を含む月である子月をもって年の初めの1月としてさしつかえないし、(ロ )春秋の諸侯の中には夏正を用いるものもあった、(ハ )「周正月」という表現は、夏や商(殷)の(夏正・殷正)と区別するためのものであり、「王正月」というのは、諸侯のの中の夏正・殷正と区別するためのものであるし、(ニ )程伊川の夏時をもって周月に冠したのだという説は不可だと論じた。(4)顧棟高の『春秋大事表』を引いて、孔子が顔子に夏の時を行えと教えたのは、百年の後、周に代わって王たるものがこうするのだと述べたわけではない。時に顔子を用いる諸侯があれば、これを行えと述べているのである、と弁じている。要するに、『左氏會箋』は、衆説を集めて春王正月の意を解し、かつ胡氏傳の誤を弁じたのである。(補足説明

















































竹添光鴻
新城新藏